バレンタインwith【御前】

教室に戻った生徒がそれを話題にすると、水に熱した石を放り込んだように、教室が好奇に突沸した。
【御前】がチョコレートを詰め込んだ紙袋を持っていた!
それは男子生徒にとって甘く苦い、それこそチョコレートの風味がする感傷へと、徐々に落着していく。
袋の中には特別豪勢な、つまり本命へ捧げるためのたった一つの逸品ではなく、複数の包装が収まっていたと報告されたからだ。
【御前】とあだ名される美しい生徒会長は、義理を欠かさないのだろう。
この事実は、彼女の心が未だ誰のものでもない証左ではあるけれど、何かの間違いのように、青天の霹靂のように、本当は自分を想ってくれているはずもないことを、冷然と突きつけてくる。
「義理でもいいから、ほしいな」
誰かのその言葉をきっかけに、複数のため息が、冬の午後の乾いた光を揺らした。完全無欠の少女への手助けがどんな実体なのか、思い描ける者は居なかった。もちろん僕も同じだ。
だから彼女のたった一人の思い人になれなくても感謝を得られることは、莫大な価値を有するのだろう。
再び教室のドアが開いて、渦中の人物が清冽な冬の香りとともに現れると、生温いエアコンに暖められた生徒たちは口をつぐんだ。その不自然を気取られないために、新たなお喋りが時を置かず始まろうとしてる。
「久世くん、ちょっと」
タイミングの悪いことに、【御前】は僕を呼んだ。クラスメイトの話にあった紙袋は、ごく自然に細い腰の後ろ側に隠されている。それが今や無意味なことを、追跡する複数の視線が証明していた。
生徒会室に続く、用無き者は立ち入り禁止の廊下で、人の気配がないことを確認してから彼女は口火を切る。
「菊と刀のベネディクト曰わく」
少し間があった。紅唇は一度閉じ合わされ、続きをたぐり寄せるために【御前】は瞑目する。星辰が輝く夜空のような瞳が再び現れたとき、それは迷いの雲をまばたきで拭い去っていた。
「義理とは、受けた恩の定量を損なわず返報する、時間限定的な負い目」
赤い包みが取り出される。
「そう。これは義理ね」
確かに彼女に呼ばれたときに、淡い期待はあった。けれど義理チョコを貰う条件に自分が適合しているとは、どうしても思えなかった。
「ありがとう。でも、恩と言えることは何もできていないよ」
そして、それが正解と思っている。僕には昏いジンクスがあって、僕が意志を持って誰かと関りを持ったなら、相手を悪い運命に落とし込むから。
けれどもしあの事を言っているなら……やはり感謝される謂われはないのだ。
「ナンセンスね」
短く言って、【御前】は包みを紙袋に戻した。これでいいのだろう。胸が痛むはずがないと、そのときまで思っていた。実際に生じた疼きを、枯れ葉を落とす冷たい風が届いたせいにしようとした。
「わからないかしら」
凍るような声とともに鮮やかな色彩が眼前に広がった。両手で差し出された紙袋と、その彩りの向こうの[御前]だけが唯一この世界が持つ意味のように、ふと胸を打った。
「これでも定量には足りなかったわ」
複雑なリボンが、鮮やかな包装紙が、工夫が凝らされた形が、秘められた香りが、そこに詰め込まれている。
様々なチョコレートは、現実の姿をほどかれて、一言で現しきれない想いの結晶に変わったようだった。
「そんな顔しないで。義理、なんだから」
ただ一人に贈られるたくさんの義理が、僕の両手の中にある。