廃章 報酬系回路の電気刺激で行動制御は可能か――あるいは アマノサグメ

 
わたしは不幸にも知っている。時には嘘によるほかは語られぬ真実もあることを――芥川龍之介
 
 
 
 
1.レミニセンス
 
虹彩が狙いをつけている。
君は虹と関係しただろう。
 
指差したか。
写真を撮ったのか。
まさか根本に金の杯が埋まっているなんて嘘を信じて、あれに近づいたりはしていないね。
よく思い出すのだ。金の杯は掘り出したものを幸福にするが、手放した瞬間あらゆる不幸が襲いかかる。
失わせるための幸福なのだよ。ほら、向こう側からそれを謀る者の悪臭が、もう届いた。
 
……そうか。近づいたのは君自身ではないか。虹を動かした者がいるようだ。
虹は一瞬で、あちら側とこちら側を接続する橋。強制的な繋がり。
 
君は虹に追われている。嘘以外では、身を守れない。
 
 
 
 
2.アンテナ
 
左目の上の、奥の奥を起点とした頭痛が、真実を語っていた。
持ち上げようとした瞼の代わりに、ひんやりとした手のひらが、視界を遮る。
「心配しなくて良い。手術は成功した」
花のような香のような、瞑想を誘う薫りが前髪を伝い落ちていく。
「サイファー」
そう呼ぶと、至高のイデアは細い指に込める力を強くした。暗いまな裏に、虹が瞬く。
「何をした」
「アンテナを」
手をやや乱暴に払いのけられて、美しい人外の、言葉が途切れる。
「埋め込んだ。ここに」
不機嫌に細められた金無垢の瞳が視線で示すのは、やはり、左目の上だった。
左目の上の、奥の奥を起点とした頭痛が、真実を語っていた。
 
……? 何かがおかしい。
 
小さな電気の蛇がのたうつように、空虚な痺れが思考を鈍らせた。
「アンテナ?」
だから馬鹿みたいに繰り返す。
「ラットを操縦するためには三つの電極が必要だ。この技術は戦前には実用段階に入っていた。
彼等はヒゲに物が触れると逆へ曲がるから、それを電気刺激で代行する。上手くできれば報酬系に刺激を与えることで、この生き物はラジコンカーのように自由に走らせられるのだ」
淡い色をした唇が、酷薄な笑みをかたどる。
「それと似た処置を君に施した」
僕は習慣的に、このイデアの言葉を鵜呑みにしない。
「人間はそんなに単純じゃないだろう。ラットにとってのヒゲのように一つの感覚に依存していないし、躰を自由に動かせても精神に影響できないなら、人間をコントロールできたとは言えない」
否定する言葉は次々と浮かんだ。それでもなお、サイファーのいつもの余裕を挫くまでに至らなかった。
けれど、見上げた顔が、僅かな憂鬱の翳りを含んでいる気がするのは錯覚だろうか。
相手は小さく息をつく。
「僕を好き、だろう?」
イデアは挑戦的に輝く瞳を、危うい率直さでこちらに据えてくる。
そして僕は出会った頃から変わらず、この人外が大嫌いだ。
「勿論」
考えうる限りの否定を。
 
「君を愛している」
……僕がこれを言った?
光に溶けて緩む雪のように、言葉は僕の口の中から溢れる。舌が満足感で熱い。
あり得ない。これはあってはならないことだ。
「君には一つの電極で十分だった」
サイファーが立てた華奢な人差し指から逃れるように、僕はソファーから腰を浮かせた。
「ギャンブル依存、アルコホリック、過食……行動嗜癖にはいろいろあるけれど、その始まりは出来事と快情動が脳内で結びつくことだ。ごく簡単に言うと、アルコールを好まない人でも、それを口にするたび報酬系を刺激されたなら、飲むことから逃れられなくなる」
僕の後を追って、心を持たない実験者が優雅に立ち上がる。
「それでは一つの行動を一つのボタンで起こせる、退屈なロボットを作れるだけじゃないか」
「その通り。脳を触った直後なのに明晰だね。けれどこんな嗜癖もある」
 
「例えば占い依存症……正確には占い師依存症。依存のキーが他人そのものであればいいのだ」
 
「相手の声、行動、支配に耽溺するなら、複雑なことを強制できる、と」
「けれど『誰か』と『快情動』の結びつきを依存にまで強固にするには、高度な技術と時間もいる」
「この、アンテナで……君に選択を明け渡す快楽を、僕は迅速に刻み込まれたんだな」
そういうのは嫌いだと言っていた。あれは嘘だったのだろうか。
「その調子だ。繰り返せば繰り返すほど、君の世界は灰色に蝕まれ、僕だけが色彩になる」
僕と敵対的で友好的なイデア・サイファーの関係は、白刃の上を走るような、危ういバランスで保たれてきた。世界から至高のイデアの軛(くびき)が外れて、全てのルールが毀れたとき、また安定をこの手で取り戻せると、僕も【御前】も信じられないから一時の共存を選んだ。
顕著な裏切りには、時を置かない報復を。
最も強い力を持つ魔述。諱名(いみな)を音声化し、人外の干渉を封じる。
「ネロ、やめ」
「諱名の支配……それはさせない」
痛みはなかった。ただ、自分を律することがひどく億劫だと感じ始めただけ。
「もう君は僕の傀儡だ。直接解らせてもいいが」
金無垢の視線と僕はぶつかる。瞳にかき集めた敵意で、この人外を燃やすことができればいいのに。
「感じたまえ」
アンテナを、形のいい指で掬うようになで上げられると、膝の力が抜けた。僕はサイファーの真紅のリボンに鼻面を埋める。自分より大きい相手を抱き止めたイデアは、少し踵をよろめかせた。
「こんなの、死んだ方がましだ」
大嫌いな相手の胸に縋って、そうでなければ立ってもいられない。
「……同感だ」
耳元をくすぐる囁きが妙に誠実で、僕はその表情に真相を確かめようとした。
白金髪が揺れて表情は帳の向こうに消え、サイファーは身を離す。
「さあ、学校へ行く時間だよ」
 
 
 
 
3.アヤメ
 
一週間に渡る長雨が、居座り続ける朝。
天気と同じ憂鬱が、日曜日のエディプス幤学校を満たしていた。日曜授業と引き換えになる明日の振替休日は、7日間連続登校の倦怠への報酬としてはささやかすぎた。
空から重力に引かれ落ちてくる雫が従う一定の法則と同様に、昇降口を通り抜けていく白い制服の群れも、緩やかな規則のもとにふるまう。傘立てで一度立ち止まり、それぞれの靴箱に移動して、靴を履き替えて校舎の、左右どちらかの階段へと向かう。その繰り返しだ。
靴箱の周りに留まって挨拶にしては長すぎる会話を交わす一団は、紅茶に抵抗する砂糖の結晶のように、いずれ人の流れの中でほぐれて消えていく。
 
法則に敏感なものだけが気づくことができる停滞。
御手座(みてぐら)巴は最初、大きな問題意識なく、それに接触した。
 
「綾目若彦くん」
 
名前を呼ばれた生徒は、顔だけ彼女の方へ向けた。口元が痙攣の後、やっと笑顔らしき形状で安定する。
「何か用ですか、【御前】……じゃなくて御手座先輩」
「問題が発生したなら、お手伝いします」
「ああ、これですか」
綾目若彦は、靴箱の中に差し込んだ両手をゆっくり引き出した。ぎざぎざに乱れた爪のアーチ。それを噛む癖があるようだ。
「奥に靴紐が引っかかっただけで……お手を煩わせるまでもありませんよ」
「上靴をもう履いているようですが、この時間に外に行くんですか」
壁にかかる時計が、8時18分を示している。朝礼まで12分しかない。
「あ……いえ、外靴を入れたとき変な感じがして、それで気づいたんです。大丈夫ですよ。もうちょっと粘って、無理そうなら先生に頼みます」
御手座巴は整った眉宇をひそめた。
「綾目くんの外靴が引っかかっているのですね」
「はあ……なにかおかしいですか」
「他の人の靴箱に?」
鋭い舌打ちは隠しようがなかった。綾目若彦は親指の爪の肉と貼り合わせてある部分を噛む。
「クラスで行動するとき、靴箱が近いと互いが邪魔なので、ランダムに割り振ってありますよね 。つまり『久世さん』の位置を知っているなんて、仲がいいんですね」
「綾目くんは久世くんと仲がいいのですか」
「そんなわけないだろ!」
敬語が外れた。自己矛盾する綾目若彦は、ついに食い破った指先から溢れる血を、吐き捨てた。
「8時30分だ。誰にも止められない。今日の分を見つけたところで、どうせ終わりだ」
「話を聞かせてください」
一歩踏み出しかけた御手座巴は、躰を後方に引き戻す。後輩は確かに、魔述の発動ワードを口にした。
「ルール、イリス」
彼は魔述師だ。そして、魔述によって逃げ去った。
後を追うにも、手がかりがない。
 
自らも魔述師の少女は、彼が固執していた幼馴染の靴箱を覗き込む。揃えられた左右の上靴に、右は藍色、左は紫色の紐が結わえてあった。
(これに似た光景を、私は憶えている)
朝礼10分前のチャイムが鳴り始めた。
 
御手座巴は、二歳の誕生日の前にスイッチを入れ、今日まで途切れることなく彼女の主観を録画し続けている直感像記憶を手探りした。五感を余さず記憶しているこの能力は、聞こえの華々しさとは裏腹に『病』である。
通常記憶は重要なものは取り出しやすく、そうでないものは奥深くにストレージされる。このような緩急が情報処理の高速化に貢献することから分かるように、全てが等しい重要度で保管されてしまうと必要な情報を取り出すのは困難を極めるのだ。
彼女は成長の過程で、新刊が夥しく入荷される図書館の孤独な司書のように、効率的な分類保管法を模索し続けてきた。現在の検索速度は人より少しだけ早い。ただし範囲は比較にならないほど広く、情報の鮮明度も桁違いだ。
(見つけた)
3日前。教室の自席で椅子を引くなり硬直した生徒がいた。他のクラスメイトがほとんど着席している中、中腰の彼は奇妙だった。顔に焦点を当てる。やはり久世正宗だ。手元に焦点を当てる。苦労して何かを取り外そうとしている。黄色い紐が椅子に結びつけてあるようだ。
その前後の日を精査する。
5日前。英文を読み上げるよう教師に指示された時、彼が開いた教科書の間から落ちたもの。血かと一瞬錯覚したそれは、赤い紐。
2日前。誰かの儀礼刀に緑色の紐が結ばれているのが、視界の端に残っている。関連すると考えていいだろう。
昨日。彼の席の隣を通ったとき、机上の鞄を落としてしまった。拾って渡しながら、その軽さに驚いたことを憶えている。空の鞄を受け取った彼は、持ち手にたなびく緑色の紐を、さり気なく手の中に隠した。そういえば3日前から、教科書やノートを忘れ続けている。久世正宗はそこまで不真面目な生徒ではなかったにも関わらず。
 
チャイムがちょうど鳴り終わって、御手座巴は目の焦点を現実に戻す。
 
『8時30分だ。誰にも止められない。今日の分を見つけたところで、どうせ終わりだ』
綾目若彦はそう言った。残り時間はわずかだ。
魔述ならば法則がある。それを解明できれば防げるはずだ。
魔述師の少女は、幼馴染の上靴を自分の鞄に納めた。緊急だと言うのに、携帯端末にコールしても出ない彼には、今日スリッパで過ごしてもらうことになる。
 
 
 
 
4.アイミテノ
 
僕たちは虚しい鬼ごっこをしていた。力を失ったイデアと、未熟な魔述師の、どちらが先に相手を出し抜くか。けれどそれぞれは握った秘密故に、協力しなければ外圧に抗しきれない。
先に裏切ったほうが勝ち。ただ、相手を失った状態で生き残れる確証を得た場合にだけ。
 
サイファーは、その確証を見つけたのだろうか。それとも。
 
とにかく【御前】に危険を知らせなくては。
サイファーの安全性は僕が保証人となって担保している。しかしその保証人は狂ってしまった。正気が残るうちに、僕を信じないように伝える必要があるのだ。
 
校舎の廊下の向こうに、夜空のように燦めく長い髪を確かに見かけて、僕は足を速める。
「見つけましたよ! 久世正宗くん」
「結構です。結構なものですね、という意味ではなく、要りません」
「学校の中にキャッチセールスが居ると思ってるんですか」
スーツ姿の小柄な女性が、奮然と立ちふさがる。
「私のこと知ってる?」
「いいえ」
「そんなとこだろうと思いました! 進路指導、交代したでしょ。今月から私です」
「結構です」
「断れないの。もう逃さないから、一緒に来てください」
今この瞬間にも、意思の選択をサイファーに横取りされうる僕に、どんな指導が意味を持つのだろう。
 
早くしないと――。
左目の上が痛む。アンテナが何かを受信し始める。濡れた感触が額を伝い落ちていく。
――もう間に合わない。
 
「血? ちょっと、大丈夫ですか。まず保健室に行きましょう」
「それはいい。日曜は保険医がいないから、邪魔が入る心配はないでしょうね」
人間を実験動物程度にしか見做していない人外と同じトーンで、僕の声帯は揺れる。サイファーは、【御前】に会わせる気はないようだ。
「……わかってもらえて何より。にしても、上靴のかかと踏んでるから転ぶんです。どこにぶつけたの」
「腕を無理に引っ張るから脱げかけたのです。その前はきちんと履いていました」
教師は辿り着いた保健室の引き戸を開けて、僕を押し込んだ。頭の中の指示が命じるままに、黒い丸イスに腰掛ける。
ピンセットで取り出したガーゼで、固まりかけの血を拭う彼女は、傷口を見て慎重になった。
「思ったより、酷いですね。頭の怪我は流血しやすいから甘くみていたけど、待って。何かある」
中腰で身を乗り出す教師の、顎から襟元が眼前に広がった。カールした鎖骨までの長さの髪。桃色に染めた唇の奥の空洞が、息を潜めている。その死角で、ガーゼをカットするのに使う、先端の鋭いハサミを僕の右手が握った。
 
視線が動く。ハサミを突き立てるべき首筋に、視野が固定された。
 
「取りますよ。感染症を起こしたら、大変です」
アンテナにカチリとピンセットの先端がぶつかった。右手を目立たないように振りかぶる。
そして僕は目眩に逆らいながら、
「何をするんですか!」
教師が叫ぶ。
キャスター付きの作業台が、上に載せた道具を撒き散らして転倒した。
(邪魔をするな)
それはこっちの台詞だ。
「台を蹴るなんて……もう、聞いていた以上に不良みたいですね」
「その矛盾について、何か考えることはありませんか」
要らなくなったハサミを床に投げ置いて、僕でないものが問いかけた。
「ちょっと……なに……やめてください」
小柄な教師は散らばったものを拾う手を止め、意味不明な言動に圧されて後退した。
「一方的な知は存在しない」
それを正確な歩幅が追い詰める。
「これを迂回するとき、代償は莫大なものとなる」
壁に貼った身長計の、153cm目盛りの下の顔が、恐怖で僕を見上げた。
「誰にも秘密にしていたようだから知る機会もなかっただろうが、橋は双方向なものだし、一度開通したものを片方が自由に閉じるというわけにはいかないのだ」
「あの、大声、出しますよ」
「だから誰もしない。声? ご随意に」
指が動いて(動かされて)柔らかい色の毛先を摘む。教師の肺が大きく空気を吸い込む様子を、僕は諦めとともに見守った。
「誰か――」
「俺だ!」
悲鳴を上回る音量で、名乗りをあげて保健室の引き戸が開いた。
「与一」
呟いた主体が、自分かサイファーなのか解らない。教師が僕を突き飛ばして出ていくのを、友人はドアの片側に寄ってレディーファーストをしながら見送る。
「開けてほしかったのかな。なんだろう、あれ」
「……助かった」
痛みが和らいで、僕は両手の感触を確かめた。支配が遠のいていく。
「おっ、血まみれじゃん。朝飯食った?」
「脈絡のないことを……何故ここにいるんだよ。見張りは?」
物事の道理から外れて久しい与一は、僕が昨日頼んだことを忘れてしまってもおかしくない簡素な脳を備えている。
「ロッカーだろ? 継続中だ」
「教室の外廊下のロッカーを、保健室にいながら見張れると言いはるつもりか」
「頭の使い方が違うんだよな。見ろ、持ってきてるぜ」
廊下で耳を覆いたくなるようなスチールの軋みがした。自分の体より大きい灰色の箱を、うっかりドアにぶつけて突き破りそうにしながら、与一は室内に押し込んだ。
「5つ繋がってるやつを運んでくるとは。頭じゃない。躰の使い方が違うんだ。間違ってるんだ。それごと持ち場に戻ってくれよ」
「えー、おにぎり買い占めに行く途中だったんだぜ?」
「だからって清拭綿を食べたら駄目だろう」
「にがい」
ふと風景が、写真を握りつぶしたように歪んだ。視界が白を滲むように広げ、他の色を侵食していく。
「おい!」
与一が押し出したスチールロッカーが、僕の体重を受けて歪む。倒れずにこそすんだが、目の上の傷から新しい出血が、頬を伝った。
「それ、怪我なのか? 俺はてっきり朝起きたら炊飯器の残りが思ったより少な目で、泣いているのかと思った」
「その程度で血涙流すわけないだろ。【御前】は?」
与一の金茶髪がすりガラス越しのように曖昧だ。また支配が始まるかもしれない。急がなくては。
「あいつ階段の方行ってたな。屋上じゃねえ? 携帯端末は?」
「持ってないんだ、無くしたかもしれない」
「本気で調子悪いっぽいぞ。手を貸してやろうか? ロッカー乗ったら目的地まで押して歩いてやるぜ?」
それは客観的に間抜けすぎる。
「なあ、与一」
いつが、僕自身の最後の言葉になるかわからない。魔述に詳しくない与一にも、警告が必要だった。
「僕がおかしくなったら、サイファーに近づいてはいけない。【御前】にもそう言(こと)付けてくれ」
「そっか。んじゃはい、ロッカー」
「乗らないよ」
 
 
 
 
5.ナナイロ
 
5日前。赤。教科書のページ。
4日前。不明。
3日前。黄色。椅子。
2日前。緑。儀礼刀。
1日前。青。鞄。
今日。藍色、紫色。上靴。
 
御手座巴は法則を読み取る。久世正宗の持ち物の、本人が気づく場所に仕掛ける。同じものには結ばない。
もう一つ。不明の4日前を想像で補う。橙色だ。
これで虹の七色になる。ニュートンが音階になぞらえて決めた色だ。
 
雨を厭わず、屋上に出た。街を湿らせ続けた雲が、重しのように空を塞いでいる。
 
古来、一般的な人間の力が及ぶのは5までと考えられた。それは片手の指が5本であることと無関係ではない。
6は第六感。努力や才能によって人間が到達できる最高数。
7はラッキーセブン。人間が感知できる、神様の後押し。
 
その先は八百万(やおよろず)。八尋(やひろ)。とても沢山で数え切れない、神域だ。8番目の色、紫外光や赤外光が目に見えないように。
 
虹の象徴的意味。無関係な二点間を繋ぐ橋だ。それは凶兆をも含む。だから世界中に、虹と関係を断ち切るまじないが存在していた。
虹を指差してはいけない。指差してしまったなら、別人に移す呪文を唱える。
虹を見かけたなら刃物で空中を切れ。
 
久世正宗は5つ目までの魔述を完了されてしまっている。せめて全ての紐を集められたなら切断する方法があったかもしれないが、今からそれはできない。
 
それでは魔述師、綾目若彦を押さえるか。学園祭実行委員の彼とは、顔見知りだった。けれど、魔述師かイデアから正式な作法で紹介を受けた名前ではないので、諱名(いみな)を標的として攻撃は不可能だ。
 
時間がない。綾目の背後にいるイデアは、即死級の攻撃を仕掛けてくるはずだ。2つの魔述が未遂なことで、威力は5/7。幣魔述師には超回復力(レジリエンス)があるためその場で絶命しなくても、立て直す前に近づかれて、とどめを刺される。
 
臆病なまでに周到だ。焦りが満潮のように胸を浸すのを感じながら、御手座巴は思考を巡らせる。イデアは自己に類似した人間をそばに置きたがる。反撃を許さない一方的な魔述は、目を合わせないのに彼女の後ろ姿を追い続ける、後輩の視線と相似形だった。
 
綾目が告知した時間まで残り2分。魔述を行使するのはイデアの方で間違いない。幼馴染の上靴から藍と紫の紐を解く。実行犯が人間であることから関係性は薄らぐが、これらはイデアにも縁のある品だ。それに人格のプロファイルを重ねれば、こちらから先に狙撃できないだろうか。
イデアという存在は目に見える場所に実体があるわけではない。彼等に攻撃を当てるには、魔述師や他イデアが持つ理論武装で位置特定をすることが必要だ。更に遠距離なら相手に対する情報や理解で精度を上乗せする必要がある。
 
しかし敵イデアは理解の代わりに目印を用いた。相手のことなど知る必要がない、知りたくもない。そんな孤独な相手の手がかりは希薄だ。並の幣魔述師の能力でも、10分で特定しきれるものではないだろう。
 
一か八か。
御手座巴は理論武装・雷上動を呼び出した。
人の領域の1か、神に到達する8か。二色の紐が浮かび、螺旋を描いて魔述の矢の核になる。
「ルール――!」
しかしそれは完成しない。無根拠な8に期待するのは、彼女のやり方ではないからだ。的中しても、2/7に威力は減衰する。イデアは一度は手を止めるかもしれないが、更に巧妙に不可知領域へ紛れるだろう。手がかりの紐と引き換えにそんな結果では、久世正宗を守ったと言えない。
 
攻撃までの残り時間を、【御前】と呼ばれる少女は手の震えを押さえるために使った。敵を排除するには幼馴染が、一度倒される必要がある。
 
 
 
 
6.アンビエンス
 
探し求めていた姿は、友人の言葉通り屋上にあった。
青ざめた頬に静謐なホメオスタシス。長い髪に雨滴を灯して、【御前】は冬空に凍りついた人形のようだった。
「マサムネ」
振り向いた拍子に、彼女の頬を透明な雫が滑り落ちた。僕は幼馴染の名前を呼ぶ時間を惜しんだ。
「サイファーが僕の脳にアンテナを埋めこんだ」
即物的な台詞。感傷よりもそれが、彼女の助けになる。
水たまりが【御前】の足もとで砕けた。近づきすぎないように制止しても聞き入れられないまま、血か雨かでぬめる左目の上に、熱い指があてがわれるのを感じた。
「ないわ、アンテナなんて」
 
「存在しないのよ。あるのは傷だけ」
 
アンテナが電波を受信する。全てが灰色に呑まれていく。
 
「じゃあなんで僕が、こんなことをしているのだと思う?」
水がまたはねた。
髪から移った水分が染みて凍えるはずの腕が、制服越しの白い肌の温もりを探りあてる。
「わからないわ。説明してほしい。マサムネ」
僕の両腕の中に閉じ込められて、【御前】は顔だけをあげた。
「それはアンテナがあるからだ」
「あなたが望まないこと?」
「……望む?」
僕は望まない。彼女に僕のジンクスが及ぶことが、どうしても看過できないから。永遠に望まない。触れたいと思わない。望むのは、別の誰かだ。
「今、証拠を見せるから」
おかしな方に曲がろうとする左手を、顔の横に持ち上げる。
痛みの源を探り当て、指を深く差し込む。皮膚を掻き分けて、堅牢な頭蓋の奥。
吹き出した鮮血が、瞬きをしない【御前】の頬を汚した。
 
見てもらおう。
 
取り付けられた嘘の根元。人差し指を曲げる運動がアンテナを揺さぶる。目が回る不快。けれど、これを【御前】に、不躾の代償に。
 
執念深い乳歯のように脳に食いついていた金属の筒と基盤は、揺らぎ始めるとやがて居場所を見失って、ずるりと嫌な感触を残して抜け落ちた。
「確かにあっただろう?」
僕は【御前】にそれを渡そうとした。気が遠くなっていく。脳の重要な部分を傷つけたようだ。無理に外せばそうなる仕組だったのかもしれない。
これで終わりかと、自問自答する。やはり何もできなかったなと自嘲する。
(もう少しだけ持ちこたえたまえ)
死の闇の中で、花のような香(こう)のような薫りがした。
 
 
 
背後から誰かの手が伸びてくる。殺意の輝きを帯びて、頭部を狙っている。僕はその手を掴んだ。掴んだ手が魔述と相殺で蒸発する。
奇襲に失敗し驚愕する顔に見覚えがあった。今日初めて見かける進路指導教師。彼女はすぐに次の魔述を完成させた。
「手間を掛けさせてくれましたね」
「選んだつもりで、君は選ばされているのだ」
僕はもう何もする必要がなかった。遥か彼方から飛来する二重螺旋が、誰かわからない存在を粉微塵にするのを最後に、灰色の世界は金無垢に塗りつぶされていく。
 
 
 
 
7.コトアゲ
 
左目の上の、奥の奥を起点とした頭痛が、真実を語っていた。
持ち上げようとした瞼の代わりに、ひんやりとした手のひらが、視界を遮る。
「心配しなくて良い。作戦は成功した」
花のような香のような、瞑想を誘う薫りが前髪を伝い落ちていく。
「サイファー」
そう呼ぶと、至高のイデアは細い指に込める力を強くした。暗いまな裏に、虹が瞬く。
「何をした」
「瀕死に近い傷を」
手をやや乱暴に払いのけられて、美しい人外の、言葉が途切れる。
「受けたんだ。ここに」
不機嫌に細められた金無垢の瞳が視線で示すのは、やはり、左目の上だった。
圧迫をやめたせいで、流れる血が勢いを増す。
「アンテナは……?」
手の中に、忌まわしい金属の棒はなかった。
「アンテナ? 混乱しているようだね。人間を自由に操るなんて便利な装置があったら、僕は苦労しないよ」
手袋に包まれた手が、血の流れをそっと辿っていく。左目の上の傷を指先がなでた。身を竦ませる僕の予想に反してイデアは、
「君が魔述の攻撃を受けて倒れてから、僕はここでずっと応援していた。死の寸前まで聴覚は残るって言うからね」
「声をかけながら何をした」
「お箸の先で脳をつついたりもしたかな。どうせ穴が開いているから同じかと思って」
残酷さは不変のようだ。
「厭(いと)わしい僕の幣魔述師くん、初撃に君が倒れたとき、敵がとどめを刺しに来ることは確かだった。僕は戦えないから、君を安全な場所に移動させる必要があったのだ」
「移動?」
左目の上に痛みを感じる前の記憶。僕は登校の準備を邪魔するサイファーに手を焼いていた。場所は自室だ。今、サイファーの膝を借りて横になっているのも。
「精神の内側だ。痛みを感じた時、光栄にも君が僕を連想してくれたおかげで【記憶の宮】と主観を繋げることができた」
「【記憶の宮】は家から出られないし、自分以外は基本的に存在しないはずだろう」
「前者については人間の脳の使い方が下手だから。後者に至っては幣魔述師はその限りでない」
このために使われた箸を廃棄しようと僕は決意した。直接刺激で過去の学校の記憶を想起させたのだ。
「イデアは光学的に人間を同定しているわけではないから、君が現実と信じる主観に狙いを定めて追っていった」
「僕が不自然な行動をしないよう、真実を知らせずにおいた……」
だからといって受け入れられるものではない。
「君を騙すのは難しくないとして、問題はイデアが単独行動する場所も、空間を再現しないとならない点だ。その不具合から感づかれては面白くない。まるで世界五分前想像仮説のようだった」
「お礼を言わなければいけないのかな」
人外の苦労の痕跡は、思い返すと確かにあった。イデアが偽装した【教師】が目の前にいない時、僕への干渉はほぼ無かったのだ。リソースを敵イデアを欺くのに割いていたのだろう。
「僕にとってはだが、容易いことだ。礼には及ばない。讃えたまえ」
「ありがとう。お返しはするよ」
サイファーの左目の上を指そうとして、片腕の先が溶けて丸くなっていることに気づいた。
「まさに間一髪だね。もう一人にも感謝しないと……ほら、電話が鳴るよ」
 
【御前】の第一声はひび割れていた。
 
「無事、なのね」
「ありがとう。自分でなんとかするべきなのに助けてもらってしまった」
答えはなかった。端末の向こうで【御前】はどんな顔をしているのだろう。不安に押されて言を継ぐ。
「紐を持ち物に結ばれるのが続いて、警戒はしてたんだけど、あまりうまくいかなかったな」
「暫く教科書を忘れていた理由……紐を結べる対象を限定して、待ち伏せできるようにしていたのね」
「それはそう……なんだけど、最後に二本同時に用意してくるとは思わなくて、失敗した」
学校で私物が置いてあるのは、5日目終了時点で靴箱とロッカーだけだった。僕自身が見張ると出てこないだろうから、与一に頼んでいたのだが――。
「ロッカーだ」
当の人物から着信があり、僕は三者間の通話に切り替えた。
「来たぞ。下級生だ」
【御前】が特徴を告げ、友人が監視している相手との一致を確認する。
「綾目若彦くん……攻撃は終了しているのに、律儀なのね」
「イデアとほぼ意思疎通ができていないようだ。繋がりを推理しづらい利点はあるが、魔述の構造を理解するに至ってないから、応用力に乏しい」
「おい、プロレス技なら何をかければいいんだよ」
僕は時計を見た。
「変わった様子はないか? 震えたり光ったり色が変わったり……」
「関節技かけたらお前の言うとおりになる。やろう」
変化がないことから、イデアの継承はされなかった。契約相手を失った、綾目はごく普通の人間だ。
「見張りは終わり。与一、昼おごるから学食で待ち合わせよう」
「俺、今から行くわ」
ムードメーカーが回線から消えて、僕は【御前】に対する後ろめたさを反芻した。本物にあんなことをしてしまわなくて良かった。
「サイファーにもお礼を言っておいて」
「あまり、気が進まない」
「イデアに的中させるには、正確な座標が必要だった。あなたにとどめを刺す瞬間なら、あなたに照準することでそれは得られる。重なった二者の識別は二色の紐が行う。より縁が深い方へ。
問題はタイミングだった」
「『保健室』では邪魔が入って合図を出せなかったが、『屋上』では完璧だった。巴くんの功績だよ。6までを君が思考を止めず確実に積み上げたから、7を加える余地があったのだ」
歯車は危うく噛み合った。疎外感は感じるけれど、蚊帳の外にいることが役割だったと思う他ない。
「あの、私もお昼を……」
囁くような声で【御前】が切り出した。
「勿論。お礼になんでも、好きなだけどうぞ」
「うん」
ミトンの形まで修復した手で、通話を終了した。3筋の凹みが指の股になる部分へ向けて深くなる、アポトーシスが進んでいく。どれだけ共に過ごしたところで、完全な味方とも完全な敵とも確定しない不確かなイデアは、僕の頭を膝の上からクッションの上に移した。
「アイクローザー」
人外が片手を掲げると呼び出された黒剣が地面に突き刺さる。
「魔述師の少年を、君は許すようだが、僕は違う」
「イデアの継承は行われなかった。彼はもう誰かを襲う特別な力はないよ」
「これからの綾目若彦を論じているのではない」
サイファーは柄頭に片手を乗せた。
「僕は綾目若彦の殺意を認定する。彼は冗談でも悪戯でもなく、本気でイデアによって君を殺そうとした。これは人間の倫理に照らし合わせても、無罪とはいかないだろう?」
「彼にとっておまじないの延長だったんだろう」
イデアが跋扈していた神話の時代と現代は異なる。大抵の人間にとって『死ね』という言葉はフィクションで、本物の死ではなく酷い目にあってしまえ、程度の意味しかない。
 
「おまじない、そうだね。理論武装で狙いを定める時、殺意の有無を攻撃の成否の要にする。君を殺す気がなかったなら当たらない。彼のおまじないを許すなら、僕のも許してくれるよね?」
 
マジシャンのようにアイクローザーを弾くと、黒い剣は二本に増えた。退屈そうな双眸はいっそ挑発的だ。
 
「彼の殺意は君のそれに比べれば針の先程度だろう。針の先と棒の先が釣り合うなんて理屈は馬鹿げている」
今更すぎる僕の指摘にため息で返したサイファーは片方を消して、使うべき剣の柄を握り直した。
「いいだろう正直に言う」
僅かな苛立ちは向けた剣の先ではなかった。
「僕の裏をかいて君を傷つけるとは、少しだが癇に障る。それだけだ」
サイファーは返事を待たなかった。
アイクローザーが何もない虚空を一閃すると、その軌道上に散乱する水滴が輝く赤い虹影となり、すぐに消えた。
 
 
 
 
8.オワリトハジマリ
 
この冬が来る前の話だ。綾目若彦は親にも立ち入らせない自室で、窓の外を向いて突っ立っている女性の人影に、特別な関心を払わなかった。それは古臭い天井灯の傘が投げかける影と似たようなもので、存在はするが気にするまでもない。
 
幾日か経って影が消えたときも、勿論胸をなでおろしたり寂しくなったりはしなかった。ただ、それが背後に移動して声をかけてきた時はさすがに飛び上がった。
「私に興味がありますか」
「……いいえ」
鎖骨までの髪を揺さぶって、それは何度も満足そうに頷いた。
「よかったです。私もありません」
彼は面倒なことになったと思った。これ以上関わり合いになるようなら、親に話して部屋を交換してもらおう。
「誰にも干渉されずに過ごしたいと思うでしょう」
黙れと言いかけたのを綾目は止めた。
「私は【随伴する測地弧】のイデア。それを叶えます。かわりに」
小柄な躰から、人ならぬ鬼気が立ち上る。
「あなたが誰かに興味を持ったら、その相手を殺しますよ」
「そんなの、こちらからお願いしたいくらいですよ。万が一そんな面倒事に巻き込まれた時、相手の方が消えてくれるなんてせいせいする」
楽だと聞いて彼が選んだ学園祭実行委員としてまみえ、共に行動するうち心を動かしたのは【御前】だった。けれど狙われたのは久世正宗である。
綾目若彦は嘘をついたのだ。