片肺とサナトリウムの

よろしければ作中に登場する音楽とともにお読みください。

 

 

死を戯曲化しているなどと、えらく浪漫じみたタッチで批判されたのも記憶に新しい。

そのサナトリウムに奇妙な出来事が起きたのは、高原に早い秋が染み込んできた頃だった。

病院関係者の間で知られているジンクスがある。
 
「305号室のヤマムラさん、手鏡してたって」

「また?」

「これでもう五人目よ」

手鏡。ベッドに仰向けに寝たまま、片手を目の前にかざす動作をいう。自らの輪郭を重みを温かさを血管の色を死臭を確かめるように。

これの頻度が増えた患者の死期は近い。
 
看護師が色めき立ったのは、この病院で死の匂いなど、僅かでもたつはずがなかったからだ。週刊誌の言葉を借りれば、戯曲化された死以外は。
 
結核が不治の病でなくなって久しく、サナトリウムのアイデンティティは拡散していった。精神病の治療施設、末期ガンのホスピス、そしてここ白樺院のようにテーマパークとして。
 
遊園地に本物の冒険がないように、このサナトリウムに本物の病人はいない。ただ楽しみとして明日をもしれぬ病をロールプレイして、後腐れのない恋愛をする。同時に医療スタッフが、不摂生な人を真人間にする程度の治療を行う。

予定の期間が過ぎれば病死の名の下に、短いが濃密な人間関係を脱ぎ捨てた足取りの軽い人間が一人、元の社会に帰って行く。

だから、陰惨さとは無縁な高原で、死の兆候が現れる道理がない。
 
一人目が本当の意味で死んだとき、彼の短い恋愛相手だった女性は、空っぽの毛布にすがってむせび泣いた。自己陶酔の海に沈没した快いだけの涙は、院内で月に何度も見られたが、不穏さにおいて大きく異なると彼女は知らない。どちらにせよ、サナトリウムの外で二度と会うことはない。戯曲化されていようとそうでなかろうと、患者たちにとって他人は、そのような場所に位置する。
 
シミズは遅い昼食を取りにスタッフルームへと鉛のような足を運んだ。昨晩出た死者のために睡眠を削ったことが、万全でない体に重い一撃を加えたようだった。たった一階分の距離なのにエレベーターを使いたどり着いた薄いドアの前で、思いついて鏡をのぞき込んだ。疲れてみえないようにしないと。心配を、あるいは負担をかけてしまう、あの子に。

「お疲れさまです」

声が細らないよう、細心の注意を払う。賑やかな返事が唱和する。

「先生、妹さん、待っててくれたのよ」

「どんどん元気になってるみたいね、よかったねえ」

スタッフにあれこれかまわれている、13も年下の妹の姿に、自然と笑みがこぼれた。

「お姉ちゃん、お弁当持ってきたよ」

「待っててくれなくてよかったのに、ハルカ」

「ううん、一緒に食べたいもの」

大病のせいで同い年より遅れて中学生になったハルカは、夏休みが始まって以来、度々ここに顔を出していた。事情を知っているスタッフが優しく迎えてくれるおかげで、蝋のような頬に暖かみがさすのが、シミズは我がことのように嬉しかった。

「先生、昨晩は泊まりだったものね。寂しかったでしょう」

「いえ、お昼にこうして入れていただけますから」

首を振ると、繊細な黒髪が清流のように流れた。見る者が心配になるほど細い顎。そして薄い肩。

「昨日は大変だったのよね、ついに三人目がステっちゃって」

「すて……?」

シミズとしては、こういう話を余り妹に聞かせたくなかった。しかし話題を変えるより早く、

「亡くなったってこと」

「なぜですか?」

ハルカが膝に乗せた麦わら帽子に力を込めた。彼女も白樺院の特殊さはある程度知っている。

「脳卒中よ。しかも脳出血由来の」

「年齢からしてちょっとありえないわよね。これが血栓由来のエコノミークラス症候群なら、運動選手にも例があるんだけど」

「若いし持病もないしで、親御さんが怒っちゃって。院内感染のせいだなんだって怒鳴りっぱなし。お偉いさんなものだから、もうびっくりするくらい高圧的でさ」

「本当にそうなら、とてもハルカちゃんは入れられないよ、ねえ」

シミズも相づちを打つ。薬を飲んでいる妹には、細菌は致命傷になる。

「けど、偶然じゃ片づけられないわ。だって全員前の日に手鏡をしていたのよ」

「昼はおかしな様子は見られないから、夜に何かあるんじゃない? 私たちは、ほら、夜に関してはアンタッチャブルでいないといけないから」

「夜ってつまり……」

「みなさん、お茶を入れますから、お菓子をいただきませんか」

できるだけ大きな動作で立ち上がると、シミズは下世話になりそうな会話を打ち切った。振動が外まで響いたのか、名残の蝉が

一声叫んで窓の外を落ちていく。
 
 
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入院患者の取り違え等ミスを防ぐため、手首にID帯を巻くのは、一般の病院でもよく見られる。だが、特殊なサナトリウムである白樺院では、もう一つの機能があった。
 
部屋の鍵だ。完全個室制である自分の病室をあけるためだけではない。ドアのICリーダーは自分以外の患者のIDを登録し、出入りを許すことができる。午前八時から午後九時までは扉は開けておくのがルールだから、真価を発揮するのは夜間だ。病院スタッフは呼ばれない限り見回りも控える、サナトリウムの裏の時間。
 
感染症を疑われたとき、まず患者たちの行動範囲が洗い出された。しかし亡くなった三人は同じ交際グループに属さず、彼らの恋愛相手も重なっていなかった。つまり、ほぼ接触は無かったのだ。
 
私たちは夜に関してはアンタッチャブル。シミズは看護師の言葉を反芻する。それは一つのひらめきだった。
 
以前死別という体の退院の後、一時的な抑鬱状態になった患者が二人でた。片方は白樺院で知らない者はいないほどの明らかなカップルの片割れ。もう一人は、知り合う機会がいつあったのか疑うほど遠い病室の娘。

どこそこの二人が怪しいなどと、スタッフルームで賭けもどきをして楽しむ情報通の看護師でさえ、大穴にも入れなかった。
 
思いもかけない人間関係が、闇の時間に形成される。そこに、原因不明の連続死のヒントがある。
 
よほどのことがない限り閲覧してはならないと、院長に釘を刺された鍵の認証履歴。

手鏡が3人増えた今夜、それは閲覧に十分な水準ではないか。

ふと、寒気がした。
 
答えはあっけなく示された。挑戦のようでもあり、余裕のようでも、訴えのようでもあった。
 
656号室 ツイノミヤ
 
同じ名前が死の先触れを飛ぶ凶鳥の代わりに、死者と死の兆候者のログに刻印されていた。
 
シミズはツイノミヤと会ったことがない。何もかも特別待遇で、白樺院の奥津城に逗留していると聞く。噂によれば七代遊んで暮らせる莫大な遺産を受け継いだものの、病弱さとか無聊とか様々な理由から入院を決めたらしい。
 
恋愛の噂はいっさい聞かない。

とんでもない人嫌いではないかと囁かれる青年は一月ほど前から、他病室へのフリーパスを、着実に手に入れていったとみえる。
 
話を聞く必要がある。
 
シミズはキャスター椅子を軋ませて立ち上がった。黄昏が近い。
 
 
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彼の部屋の扉が閉まったままだったとき、彼女は酷い躊躇いを覚えた。昼の間は開けておく、サナトリウムの僅かなルールをも堂々と破る。それは如何なるキャラクターを暗示するのだろう。
ハルカ。ハルカに恥じることのない私でなければ。どんな呪文より、妹の名前はシミズの背骨に芯を通す。
 
それでも、せめて誰かと一緒にくればよかったかもしれない。脳裏をよぎった思いは、これから30秒たたないうちに消失する。
 
朱であったが、生命の色ではなかった。愛とも温もりとも健康な血の巡りとも、区別すべき系統の赤だった。

西の空から放たれた夕暮れの光線は、殺風景な病室に差し込んだ瞬間から悪魔を定義し始めた。
 
腐敗と退廃とが同時に香った。けれどそれは匂いではなく、音声だった。
 
気づいた瞬間、後ろ手にしっかりドアを閉じ合わせる。それがシミズにできたたった一つの抵抗。

窓辺に立つ背の高い痩せた影は、歌を口ずさんでいる。
 
”ただ憧れを知る者だけが

私の苦しみを知るのです”
 
チャイコフスキーの歌曲。けれど発声はオペラのものでも流行曲のものでもない。結晶を震わせるような声が、脳を甘く揺らした。

異国の言葉は純粋な意味だけを訴えてくる。硫黄の炎が古びた写真を舐めるように、意識は容易く灰になる。
 
”ひとり

あらゆる喜びから切り離され

彼方へと

天空を眺めます”
 
止めなくては。そこで声が出ないことに気づいた。胸が潰れている。最初の音に一撃された瞬間から、呼吸を忘れていた。肺は空っぽだ。シミズにとっては常人の何倍も危険な状態である。

それでも嫌だった。彼女の胸郭のうちにとどまり続ける清浄な真空を、生きるための酸素とはいえ腐臭で満たすのは。
 
”ああ 私を愛し 知る人は

遠くにいます

眩暈がする

はらわたが燃える

ただ憧れを知る者だけが

私の苦しみを知るのです”
 
「先生にはやはり、効きませんね」
 
我に返る。朱は室内から退き、最後の太陽が木立の影に消えようとしていた。
 
「明かりをつけていただけますか」

シミズは壁を探る。

蛍光灯のしらけた光の下で、青年はまるでただの人間のような風を装っている。
 
「はじめましてツイノミヤさん。少しお話の時間をもらえませんか」

「私はよく存じ上げてますよ、シミズ先生。あなたからおこしいただけるとは光栄ですね」
 
この人物が人間嫌い? やわらかい笑顔で椅子を勧めるツイノミヤからは読み取れない。

色素が薄く線が細い容貌は、人が嫌悪する要素を極限まで削ぎとった人形に似ていた。
 
「息なんか止めなくて大丈夫ですよ。白樺院で真正の病人は私一人ですが、感染る類ではないのですから。
 
あまり呼吸器に負担をかけては駄目じゃないですか、『片肺の』シミズ先生。罪を犯してまで救った妹さんが悲しみますよ。
 
といっても実の両親に見捨てられた、血の一滴も繋がらない妹さんですが」
 
「・・・・・・今、なんて・・・・・・」 

とうとうと流れる言葉の意味が、耳を滑り落ちていく。耳障りのいい声が呼んだ『妹』の響きが、不快なささくれのように脳を引っかいた。

「よく存じ上げていると言ったでしょう。

せっかく私と同じだったのに、二度と歌えなくなるまで胸を裂いたナイチンゲール。

あなたはすぐに肺移植をしないと死に至る少女に、容易く自分の半分を与えたのでしょう?

生体間であれば三親等以内でないと許可されない手術のために、書類をごまかしてまで。

他人同士で適合は奇跡だったけど、不思議ですね。あなたはそれをはじめから確信していた。
 
幸い普段の勤務態度や恩師の口ぞえもあって、こんな僻地に飛ばされるだけで済みましたね。

順番は前後したとはいえ、ご両親が彼女を養子にとって、表面的には問題も解決しました。

空気がよくて、勤務も過酷ではないサナトリウムは、肺機能の低下したあなたにとってもよい保養地です」
 
看護師が話したのか。けれど全貌を知る者はいないはずだ。それぞれが持つ断片的情報を組み合わせて正確な予想を叩き出す知性を、ただ、人は悪魔と呼ぶ。
 
「その窓からあなたを見ました。そして私は、私に何の機能が備わっているか知ったのです」
 
誰も何も言わなくていい。十分理解した。あれは、人を殺す歌だ。
 
「白樺院に何が起きているか、ツイノミヤさんは当然知っていますね? 何故です。あなたは何故人を――」

「彼らのほうが望むのですよ。だから、入室許可をくださるのでしょう」
「患者さんたちが死を望むとでも言いたいんですか」
「いいえ、その向こうに憧れるのです」
細長い身体を折り曲げてベッドに腰掛けるツイノミヤは、そこだけ溶鉱炉のように輝く瞳を彼女に据えた。
「私はかつて死の深い懐、硫黄火の燃える地獄の大気を呼吸したことがあります。肺に染み込んだそれが歌とともに溶け出す時、あの種の貪欲な快楽主義者は、たまらない高揚を感じるようですね。
私側の利益は、淡い期待をもって彼らの中に同じ憧れを持つものを探すことができることでしょうか。たとえばあなたのような」
「おっしゃる意味が分かりませんが」
「先生も死を呼吸し、しかしその憧れから遠ざかる経験をなさったのでしょう?
肺が揃っていればあなたも歌えたはずです。片肺では普通の歌も激しい運動もできないとは、さぞかしご不便ではありませんか」
古い本のかびた匂いが、ふとシミズの鼻を掠めた。
黙り込む彼女に代わって、ツイノミヤは整った容貌に似合わない腐臭を吐き出した。
「ねえ、このサナトリウムでは元の生活に戻ることを病死というのでしょう? ならば、私がしていることは退院です。真の意味でね。どうですか」
歪んでいる。
「やめて欲しいとお願いすれば、やめてくれますか」
「望まれる限りは歌いたいと思いますよ。
やめさせたければ、簡単です。私は幽霊じゃあるまいし、病室の壁をすり抜けることはできませんから。夜間の入室を許さなければいいのです。人が集まる昼間は、あまり調子が出ないので」
ツイノミヤが言い終わる前に、シミズは次にすべきことを考え始めていた。まだ歌を聴いていないと目される人物。
彼に許可を与えたリストの最新部分に並んでいた人物に翻意を促すことだ。
 
 
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「アキヅキさん」
美しく整えた巻き毛を背中半ばまで伸ばした女は、旅行誌をめくる手を止めて、きつい視線を上げた。

「何か用?」

「ツイノミヤさんをご存知ですか」

両脇で『病死後』の旅行プランを練っていた二人の患者を、ハエでも追い払うように下がらせる。ゆっくりと立ち上がった彼女は、肢体を包むオートクチュールのワンピースとあいまって、女王のようだった。

「知ってたら何だって云うの? 人のやることに口を出さないのがここのルールでしょう」

挑戦的に顎を上げる。猫のような瞳が、木漏れ日にきらりと輝いた。

「お会いになる予定があるなら、暫く自粛していただきたいんです。ドアの立ち入りコードから登録を消してください」

鼻先で笑う。

「先生、恋人はいらっしゃるの」

「は? ・・・・・・いえ」

「なら、お分かりにならないのかもしれないわね。憧れというものが」

また、憧れか。シミズは意識して感情を抑止した。

「恋愛をとがめだてするつもりはありません。ただツイノミヤさんは感染症の疑いがあって、隔離の必要があるんです。あなたの健康を考えてのことです」

健康どころか、命だ。嘘の混じった見解だが、こうまで云われて否やはあるまい。

しかし、アキヅキの口角はむしろ笑みを象った。

「彼が患うものなら、私も共有したいわ。苦しみでも、喜びでも。病でも」

酔っ払っているのか。二の句がつげず、シミズは患者の顔色と呼気を観察した。酒気の影はない。

「けれど、そうね。あなたの顔を立てて言うことを聞いてあげてもいいわ」

「・・・・・・そうしていただけると助かります」

「クローゼットを増設してほしいの。もうお洋服を入れるところがないわ」

「すぐにお返事できませんが、掛け合ってみます」

若干の理不尽さは感じたが、シミズは内心息をつく。

「それじゃ、もう行っていいわよ」

「最後に教えてください。彼とどこで知り合ったんですか」

アキヅキは束の間、視線を緩めてどこでもない場所に焦点を結んだ。

「歌が聞こえたのよ。たった一人空を眺める彼の歌が、私を引き寄せた。どこでも聞こえるのよ」

彼女は片手を顔の高さに持ち上げる。空気の中に張り巡らせた一筋の旋律を選び取るように。
それを増幅し手のひらから放つ、『手鏡』。
 
 
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結局三人を説得し首を縦に振らせたシミズは、自宅のソファーに倒れこんだ。
これで直近の死は防げた。状況証拠だけでツイノミヤを退院に追い込めるかはわからないが、彼の来室を許可した患者の説得は続けていく必要があるだろう。

「お疲れ様、お姉ちゃん」

ハルカが湯気の立つカモミールティーをテーブルに置いた。

「ありがとう」

林檎に似た香気が、鼻の奥にしんと染み込むようだ。

「宿題は大丈夫? もうすぐ新学期でしょう」

「大丈夫。もう終わってる」

それからハルカは、言葉を選ぶように身じろぎした。

「お昼に看護師さんたちとお話していてね、ちょっとおかしなことに気がついたの」

「なあに?」

靄がかかったような頭で、相槌を打つ。気を抜けば、このまま眠ってしまいそうだ。

「患者さんの『手鏡』が確認されてから、死までの時間がだんだん短くなっているみたい」

「ハルカ、その話はやめましょう」

「もうひとつだけ、聞いて。お姉ちゃん。

 実は『手鏡』が見られたものの無事『病死』、というか退院した患者さんはいるのよ。けれど八月に入ってからは、十日以内に全員が死亡している。原因はわからないけれど、脳卒中を起こす『何か』の力はどんどん進化しているみたいなの」

今、頭に引っかかるものがあった。それを掬い取れないうちに、急流に流される木の葉のように消え去っていく。探さなければ。おそらく、ハルカが気づいたことは、何かものすごく致命的なものだ。
 
電話のコール音で目が覚めた。茫漠とした不安を繰り返し再生するだけの浅い夢から覚めたシミズは、取り落としそうになった受話器を握りなおす。ディスプレイは、午前五時を示している。
 
未明の電話は嫌だ。断じて吉報ではないから。
 
身支度を整えたシミズは、ハルカの部屋を覗いた。できるだけ物音を立てないようにしていたつもりだが、妹は起きていた。その手が顔の前に掲げられているのを見とめた瞬間、シミズは自分の足が思いがけない速度で動くのを感じた。

「お姉ちゃん!?」

払いのけた右手から絵葉書が舞い落ちる。

「ごめんなさい、誤解だった」

「・・・・・・今から、お仕事?」

「そうよ」

「また、誰か亡くなったの?」

「ハルカ」

シミズは上体を起こした妹の両肩に手を載せた。骨がありありと感じられる、痛々しい身体。

「今日から良いというまで、白樺院には来ては駄目」

返事は、ない。

「ハルカ、いい?」

「・・・・・・何で事情を教えてくれないの」

髪の毛が肩を払う音さえ、泣き声に聞こえた。下瞼が支えきれず決壊した涙の雫が、毛布の表面をころころと落ちた。

「私は何もできない、お姉ちゃんの役にも立てない、ダメな子だから?」

こんな妹を見るのは初めてだった。サナトリウムに薄く張った不安の膜が彼女をも絡め取り、ストレスの嵐で玩弄しているようだ。

そして不安の中心にいるのは・・・・・・。

「私なんて、お姉ちゃんの肺を奪って無理に生きてるゾンビみたい。本当はずっと前に命が尽きていたはずなのに。お姉ちゃんの未来を削りながら息をしているんだわ。重荷でしょう? 負担ばかりかけるよその子なんて!」

「馬鹿なこと言わないで!」

少し大声を出しただけで胸郭に鋭い痛みが走った。心理的な苦痛と物理的苦痛が交じり合って、シミズの顔がゆがむ。とにかく緊急を要するのはサナトリウムのほうだ。ハルカとは時間が出来次第、きちんと話し合おう。

「じきに学校が始まるんだから、安静にしてなさい」

自己嫌悪で一杯だ。小学生のときの自分からは考えられないくらい、取り乱している。シミズはその苦味を舌の裏側から消せなかった。
 
 
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アキヅキは未明に命を落とした。手鏡をする暇もなく。
発見が早かったのは、白樺院では珍しい、ナースコールが押されたからだ。

結局、彼女は約束した入室コードの解除をしていなかった。彼は確実にアキヅキの部屋を訪うただろう。

ツイノミヤの歌の力は、最早、一晩かからずに相手を殺せる。
 
遺族への説明や書類仕事を終えた時、すでに時刻は昼前になっていた。できるだけ早くツイノミヤの元へ行きたかったが、他人に超常的な因果を解けるだけの材料も自信も、シミズは持ちあわせてなかった。

だからといって、悪魔に何を陳述すれば人間に戻せるのだろう。魔法の言葉は、一文字も沸いてこない。

彼の病室へ、急げ。

考える時間をもっと、沢山。

アンビバレンツが足首に縺れる。ハルカに関係する不正が露見したあの日のように、覚悟を総動員して訪れた656号室には、誰もいなかった。また、誰かを狙っている? 急いで踵を返そうとしたとき、あの歌が、窓の外で弾けた。
 
 
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この間まで雨のように降り注いだセミの声は、絶えていた。たった一人の青年の悪魔的な音に吹き飛ばされたように。
「先生に直接お目にかかって、新しい歌が歌えるようになりました」

昨日と同じように殆どシミズに背を向けて、背の高い後姿が述解する。

「脳の血管に悪戯する程度ではなくて、もっと強い憧れが共鳴するような」

白樺の樹皮には、細切れになった頭皮がこびりついていた。そこから縦に、桃色地に赤黒い血管のネットワークを浮かべた肉塊が、豆腐をなすったように続き、眼球は白い歯の粒と並んで、ぽかんと空を眺めている。顎より下はきれいなもので、もう二度と動かないのが不思議なくらいだった。

それが都合四体ほど横たわっている。身なりからして病院関係者ではなさそうだ。

「高原の環境音と一緒に私の歌を収録したいと、集まってくださったんですよ」

シミズの疑問を予想したように悪魔が答える。

「あなたが憧れを知るものを探しているのはわかりました。でも、この歌ではあぶり出しにすらならないでしょう?」
探して探して、やっと形になった言葉を無理やりシミズは舌に載せる。話していないと、無限に叫びだしそうだ。
「他の人では叶わないのです、シミズ先生。誰のために歌おうと、私のはらわたは余計に焼け付くようです。
あなたでなけいと」
「ツイノミヤさんが人殺しでなければ、身に余る言葉だったかもしれません。そんな仮定は無意味ですね。
さすがにこの光景を見れば、警察が動いてくれるわ」
携帯電話を取り出す。これで終わりだ。
「あなたもある意味で人殺しでしょう。ご自分を殺していらっしゃる」
全て弄言だ。意識的にツイノミヤの言葉を追い出す。やっとコール音が始まる。一回。二回。警察が出るまでがじれったい。
「あなたが、過去の過ちや依存のために私と憧れの共同幻想を持てないなら、消してしまおうと思うんです」
何を? 携帯電話から応答が聞こえたのに、そちらに向けられる神経は残っていない。
雷撃のような発想が、恐ろしい未来を照らし出した。
シミズを見たときから歌を得たとツイノミヤは言う。
けれど劇的にその力を増したのは、そう。シミズはハルカの言葉を思い出す。一月ほど前から戯曲ではない死は開始された。
妹がサナトリウムに通うようになってから。
 
シミズが振り返るのと、強い風が見慣れた麦藁帽子を運んできたのは同時だった。木立の間に翻る白いスカート。病的に細い両足。
指の間に挟んだ絵葉書は、明け方シミズが払いのけたものだ。
 
第一声のための穏やかなブレスが、彼女の耳元で、した。
殺意はすんなりと胸に落ちてきて、後悔が追いつけないほど速く、音よりもずっと速く、手を伸ばせる気がした。
 
 
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『プレゼントを直接手渡すことができなくて残念です。
どんな顔をされるかいろいろ想像してみたのですが、たぶん先生のことだから、どれもあたっていない気がします。
私たちは誰よりもわかりあえたはずなのに、変ですね。
 
さて、私はあなたの行動によって古い歌と新しい歌のどちらを使うか決めることにしました。

私はどちらを選んだでしょう。

今更ですね。

先生が私を止めるのを躊躇うなら、妹さんを破壊します。そうでしょう? 重荷から解放して差し上げるのが、あなたと憧れを共有するただ一人の人間のつとめですから。
 
あるいは、妹さんを守るために私を害するような、捨て身の覚悟がおありなら、新しい歌で私自身を破壊します。脳死になるでしょうから、この躰はよしなにお使いください。
 
これから高原は、片肺のあなたには辛い季節へ進みますが、どうかお身体に気をつけて。あなたが憧れを感じるとき、必ず近くにいます。

それではまたいつかお会いしましょう』
 
 
 
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「それで久世は、清水遥香のドナーになったんですか」

「いや。清水先生とその妹は、よくよく話し合って、提供を受けない判断をした。臓器自体は適合していたそうだが」

「では、彼女はもう……」

「いや、幸運なことに、その後別のドナーが見つかってね。日常の生活を送れるくらいにまで、回復したようだよ」

「久世の方はどうなったんです」

「心臓だけ動かしてる状態だ。資産家のことだからな、七回死んでも死に続けていられるくらいの余裕はあるさ。ただ妙なことがあってな」

「と言いますと……」

「ラザロ兆候って知ってるか? 脳死患者が体を動かしたりする……と言っても単なる脊髄反射に過ぎないんだが、臓器提供を受けようって時や呼吸器を止める家族にとっちゃ罪悪感の元になるアレさ」

「はい。久世にそれが見られるんですか?」

「背中を反らすとか祈るように両手を曲げるのが一般的だが、彼の場合片手だけで、まるで手のひらを覗きこんでいるようなんだ」

「噂の手鏡ですね、まるで、それじゃあ」

「ラザロ兆候を示した脳死患者は間もなく亡くなるんだが、久世にはまるでその様子がない。もう何年になるんだ? まるであべこべだよ。

歌で何人も殺したって話も聞いたが、つくづく不気味な男だ」

「それじゃあ清水先生は、正しい判断をしたのかもしれませんね。悪魔のパーツに生かされてるなんて、やはりどうしてもゾッとしませんから」
「ま、そうかもな」
「でも院長先生、ちょっと僕には腑に落ちない点があるんですよね」
「なんだ」
「手鏡をした患者は、離れた病室の久世の歌をキャッチして激しい憧れを抱き、直接聞くために部屋に招き入れるのでしたね」
「表沙汰にはできないが、そうだな」
「それでどうして何号室とか名前とかが分かるんですかね。入室許可はそれがわからないとできないでしょ。それにレコーディングに来た連中は、どこから聞きつけたんでしょう」
「参ったな」
「はい」
「売りになると思ったんだよ。あの頃いろいろ言われて、イメージがなあ」
「・・・・・・なるほど」
 
 
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高原に幾度目ともしれぬ秋が訪れようとしている。シミズはハルカの夏休みにあわせて、少しだけ長い休暇を取った。お互い負荷はかけられない躰だから遠出とまではいかないが、ドライブがてら外で昼食をとると心が浮き立つ。

酸素が全身を満たす効能か、年齢通り見えなかったハルカの背が、最近伸びてきた。いつか追い越されるのかな、と想像するとシミズは胸がいっぱいになる。

「こんなところでレコーディングしたのかなあ」

「なあに?」

助者席のハルカは、CDのプラスチックケースをパチンと開いた。

「昨日ね、午前中に宅配便が来たの。私とお姉ちゃんの連名だったから、ごめんね、開けちゃった。すごくいい曲なの」

「ふうん。ポップス?」

「クラッシック。バックに鳥の声や風の音が入ってるの。あっ、中身うちのプレーヤーに入れたままだった」

「あらあら、うっかりさんね」

ちらっと手元に目をやる。白樺を背景にタイトルが書かれたシンプルな表紙。
 
『片肺とサナトリウムの』

続きはハルカの親指の下で見えない。
 
「何回も聞いたから、憶えちゃった。ロシア語のところ、カタカナ発音になっちゃうけど……」

「ハルカーー」
 
大切な者の唇から零れた音をなんと呼べばいいのだろう。
 
『ただ憧れを知る者だけが――