カフカの赤と黒

 
 
フェノールフタレイン溶液について。
水に溶けにくいフェノールフタレインをエチルアルコールに1%溶解したものは、ph9以上で赤色を呈する。
そのため、対象が塩基性かを判別するための指示薬として使用される。
 
‡  ‡  ‡
 
「この中には黒猫がいるのだ」
背中を壁に預けたまま、サイファーは傍らのドアを示した。
「開けるなら慎重にしたまえ」
猫にたいして興味があるわけではないけれど、僕は細く開けたドアの向こうに、黒い生き物の気配を伺った。
室内は真の闇だ。触れれば手が切れそうな、鋭角の暗闇。
僕の背後から注ぐ廊下の明かりは、為す術なく入り口の境目で消滅していた。
「なにも見えない」
一度扉を閉めた。暗がりから猫の爪は届きそうだった。黒い毛皮を保護色にして、それは僕の皮膚を裂く気がした。
 
「見えないものは信じづらい」
人外は囁くように続ける。金無垢の瞳が、貪婪(どんらん)な好奇心の輝きを、あえて隠すように半ば伏せられていた。
年季が入った廊下において唯一美しい存在は、猫ではなく悪魔の目をしている。
「試薬を考えよう。黒猫を検出する試薬」
「反応を持って、実験者にそれを知らせるもの……」
言葉に出した瞬間に、その場から日常は消える。あらゆる不必要な情報は退席して、僕は自分のイデアと、毒杯に唇をあてがうように向き合った。
「例えば、その部屋に鼠を入れてみる」
「鼠は騒ぐだろうな」
捕食者を、敏感に察知して。自らの運命は変えられなくても、悲鳴という形で彼らは仲間を危機から遠ざける。
その振る舞いで僕たちは、そこに猫が居ると知れる。
「あるいは、象を入れてみる」
僕は想像した。
静寂。無関心な停滞。
「象は試薬にならないな」
「……その通りだ」
「じゃあ、蛇は――」
言葉を最後まで結べなかった。【御前】に言わせれば、ナンセンスだと気付いたからだ。
 
蛇は猫が居ればそれを食うだろう。音もなく。
猫が居なければ、やはり同じく暗闇の部屋は静かなままだ。
 
これでは試薬によって状況は変わり、僕たちが受け取る結果は同じ。最悪だ。
 
「君が入ってはどうかな」
僕は逡巡した。
「僕が入っても象と同じになるよ」
サイファーは白金髪を左右に振る。
「君は象とは違う。寧ろ蛇に近い」
「けれど蛇では、試薬にならない」
「君は蛇にできないことができるだろう? 蛇は猫をまるごと飲み込んでしまって痕跡を残さないが、君は変化を生み出せる」
闇の中で、僕が猫に何をすると予想しているのだろう。
花のような香(こう)のようなイデアの薫りに、狂的な要素が増した。
言葉未満の不安が、精神を圧迫する。
なんとか、この人外の案を否定しなければ。
「僕は蛇のように熱で相手を見つけられないよ」
「そんなことはない」
相手の返答は早い。
イデアは、僕が握りしめたままの右手を人差し指でなぞった。拳に並んだ四つのおうとつを、冷たい感触がよぎっていく。
「これがあれば」
理論武装?」
黒剣、アイクローザー。いつからこれは手の中に存在していたのだろう。
「猫が黒くなくなれば、僕は見つけられる。どんな深い昏黒の渦中でもね」
駄目を押すように、サイファーは言を継ぐ。
「君は猫を赤くするんだよ」
 
赤く。血の色に、と言いたいのか。
イデアに、魔述師に、僕はそれを突き立てたことがあった。刃物らしく、アイ・クローザーは体内の赤が外へ零れ出す手引きをした。
 
「猫を赤く」
 
それが意味するところは一つだ……本当に?
 
「さあ、行きたまえ」
 
サイファーの華奢な腕は心の空隙をついて、僕の胸を押した。
優しく触れる程度の衝撃の後に、僕は隙間無い闇に囲まれた。
 
‡  ‡  ‡
 
このどこかに猫が居る。
猫は毛を逆立てているのか。それとも悠然と尾を揺らしているのか。
 
黒い部屋で黒猫が見えないように、猫にも僕の黒剣は見えないだろう。
 
空間に偏在するイデアさえ追跡し照準する理論武装。
それは願いさえすれば、猫を斬れるかも知れない。
斬って血を持って赤くできるかも知れない。
 
5歩進んだところで、理論武装は他者を感じ取った。
けれど『僕が認識した』それだけでは、客観的な証明にならない。
 
猫は動かなかった。
僕は近づいた。
 
‡  ‡  ‡
 
「何も居なかったよ」
僕はドアを開けて待つイデアに、そう言った。
理論武装の刀身は血の汚れもない、漆黒のままだ。
しかし、異常な実験者は肩をすくめた。
「いや」
重ねて否定する。
「居た。居たし、赤くなった」
「君は何を根拠にいっているんだ」
言いつのろうとする僕を無視して、サイファーは闇の中に声を掛けた。
「ねえ、もう出てきてくれてもいいだろう」
「……だめよ」
部屋の奥から、返事があった。【御前】の声だ。
「今、君が出てこられない理由を知っているよ。猫くん」
それが君の変化を雄弁に語っているのだ」
「……」
幻聴だったかと思い直すほどの間、返事は途絶えた。
「もう少しだけ待って」
ややあって返ってきたのは、【御前】らしくない消え入るような声音だった。
サイファーは僕に向き直る。
「僕は最初に言った。この中には黒猫がいる。
解っていることを何故確かめる必要があるのだ。
 
研究者はね、嘘をつくんだ。
被験者から真実を引き出すために。
意図を見せない。
 
つまり検出すべきは君の行動で、試薬が黒猫なのだよ。
そして黒猫は真っ赤になった。何が起きたのか、解るだろう?」
 
「僕は猫に傷を負わせてはいない。だから赤くなんて――」
 
僕の肩越しに、【御前】が顔を覗かせる。変わった服装をしていて、その頬は、僅かに紅潮して見える。